日本の古い美人画に、浮世絵美人というものがあります。
お気付きでしょうか?
その女性たち、タバコ(キセル)を吸っているものが少なくありません。
それには、きちんとした理由がありました。
その理由とは・・・・・
実は、「美しくありたい」という切なる女性たちの願いが込められているものです。
当時の日本には、『お歯黒』という風習がありました。
その『お歯黒』の風習は、昔の日本だけに留まらず、マレー地方やインドネシア地方など
東南アジアの各所に見ることができます。
野ヤシの一種であるビンロージという実を砕いて、絶えず噛んでいる民族や、
それに加え、更に、鉄を溶かした溶液を塗って、歯を黒くする民族もいます。
鉄を溶かした溶液が、ビンロージの中の歯に取り込まれたタンニンに反応すると
黒色のタンニン酸第二鉄となり、歯が黒く染まる訳です。
※ タンニンとは、別名『渋』と呼ばれ、毒性が極めて少なく、
日本茶・コーヒー・紅茶・野菜・木の実などに含まれています。
お歯黒は、昔は 宗教的思想と関連していた所もあったと言われ、
インドネシア地方、特に ヒンズー教徒に それは多く、悪霊を追い払う手段とされてきました。
それが、世が移り変わっていくうちに、儀式的なものとなり、既婚と未婚の区別になっていったと
言われています。
※ 日本とインドネシアの どちらの起源が古いかは、不明とされています。
いずれも、数名の歯科大学の教授たちの長い臨床経験から、
お歯黒を施している歯には、う蝕が少ないことを認めていたそうです。
日本でのお歯黒の歴史を簡単にお話しましょう。
平安時代、貴族娘の成人(17~18歳)を表していました。
美しい着物を着せ、お歯黒をさせ、男性の受け入れ体勢が整っている印とされました。
室町時代になると、上流社会の娘の成人は一般の人々よりも早く、
13~14歳とされ、お歯黒を付けるのも早くなりました。
お歯黒の歴史の中で最も低年齢で付け始めることになった時代は、戦国時代。。。
この時代には政略結婚が多かったため、武士の娘は8~9歳でお歯黒を付けさせられたそうです。
江戸時代になると、世の中が平和になり、上流社会の生活様式が一般庶民にも伝わっていきました。
婚約・結婚を迎えた女性が付けるようになり・・・
やがて、「黒い色が他の色に染まらないごとく、夫以外に染まらない」という既婚女性の
心の支えとなり、表徴となった訳です。
お歯黒の液は、各家庭で作られていたそうです。
粥 + 麹 + 鉄屑 が原料であり、これ等を 壺に入れて、温め、醗酵させ、
(醗酵させたものなので、むせる程 臭かったそうです。)
浮遊物を取り除くために加熱し、諸々を沈殿させ、上澄みの液作りました。
これに、「うるし科」の一種である「ぬるでの木」にできた樹液の塊の粉末=五倍子(ふし粉)を
交互に塗り、お歯黒にしていたのです。
この「ふし粉」は、染物の原料になったり、腹下しの薬になったり、
皮のなめしになったりするものでした。
上澄みも「ふし粉」も両方渋いので、水でうがいをして お歯黒を完了としていたようです。
お歯黒は、歯垢をよく取り除かないと歯質が染まらないので、
毎朝、房楊枝で丹念に口の中を清掃した後に付けていたそうです。
丹念に清掃した後に、タンニンにより歯質を保護するため、
プラークコントロールすることにつながっていたと考えられるそうです。
そのお歯黒・・・・・
タバコを吸うと、お歯黒が付き易くなり、色とツヤが良くなると言われ、
美しくなりたいと願う女性が好んでタバコを吸っていたそうです。
それが、浮世絵にも描かれているという訳ですね。
では、いつ頃から お歯黒の風習が衰微し、消えていったのか・・・・・・。
それは、明治時代。
外国の文化や習慣が流れ込んできました。
そして、お歯黒、眉を剃ること、チョンマゲの風習が消えていきました。
明治元年1月6日、
これらの「しきたり」は、必ずしも守る必要はないという内容の大政官令というものが出され、
その3年後の 明治3年2月5日、
それらを禁止するという内容の大政官令・・・禁止令が出されました。
そして、東京から 徐々に お歯黒が消えていきました。
昔 お歯黒という風習があったことは、たくさんの方々がご存知だと思います。
しかし、このような歴史の背景があったことや、
お歯黒の習慣がプラークコントロールになっていただろうということを
ご存知だったでしょうか?
私も まだまだ 自分が知らないことが 沢山あるのだな・・と痛感しました。
お歯黒って、なんだか フッ素に似ていますね。
次回は、そのお話に触れていきたいと思います。